どうもご無沙汰しております。
バンドを再開したくても、ギタリストが腱鞘炎で再開できないmanzoです。
ニバリキみたいなユニットもいいんですが、やっぱバンドやりたいっす。
しかもげんしけんバンドの面子で。
ということでギタリストシロー氏をしかと待つことに決め込みました。
この場を借りて言うのもなんですが、医者に手を使うなといわれているのに新しいギターとか買ってオギオギしてる場合ではないと思いますよシローさん。
子供じゃないんだから(笑)。
さて、なかなかアカデミック風なタイトルで始まりましたこの問わず語りですが、ちと社会化見学風味ですよ今回は。
いいですねぇ、この実務とかけ離れたタイトル(笑)。
というのも・・・・・・
まぁ何しろ歌詞が書けないんですよ(笑)。
元が曲書きなもので、日本語の用い方が乏しくて。Yahoo!辞書とか酷使島倉千代子です。まぁ辞書使っても使わなくても、つまらないものはつまらないわけで、そんな事で昨日はプリント失敗したコピー用紙の裏にプロットやフレーズを書きなぐり、納得がいかず自分を殴り、また思いついては書きなぐり、などという非生産的な振る舞いをしていたらそのまま寝てました。
気が付いたときには、テレビからかすかに流れる向谷実氏の声で起こされました(笑)。
NHKの「熱中時間 鉄分補給スペシャル」という番組が流れていたようです。
で、
氏の声が幽かに。
「かつてここには東急砧線というのが走ってまして僕の少年時代には・・・」と夢うつつに僕に語っている。
朝からDay Tripper状態で僕は、
「何だって!そんな路線があったのか!!!!」
と、それこそ「夢中で」びっくりし飛び起き、それが現実のものと知る。起きたら最後I Can't Stop、ネットであらゆる「東急砧線」に纏わる情報を収集、そして写真を見てハァハァする。こりゃタマランワ。
さて、早速ググってみた。
砧線:二子玉川・中耕地・吉沢・大蔵・砧本村計5駅、営業キロ数2.1kmという小ぢんまりとしたものだったようだ。
1924年、関東大震災後の多摩川の砂利運搬の為に敷設された路線らしく、それから1969年に廃線になるまで東京市民(戦後は都民ですね)の足にもなったらしい。まだ没後38年って事か!
し、知らなかった・・・・(ToT)
うちの母が僕のうちに遊びに来るときに、時折「玉電に乗ればいいんでしょ?」と聞かれ、田園都市線がかつて玉電という名称であったことぐらいしか知らなかった・・・。
全国の鉄道ファンの方、どうぞ心行くまで僕をなじってください。
一通り写真を見、ソースを確認して「あぁ勉強になった!」と僕の気持ちが終わると思ったがアニハカランヤどうもまだ僕の知的好奇心が納まらん(笑)
イきたくナッチャッタ。。。
ということでデジカメ持って、愛車コシンスキー号にて行ってまいりましたよ。駆け足で行ってきたので、写真が少ないのは不手際なのと僕の雑な性格のせいです。すみませんm(_ _)m
ご興味のある方は下の「東京の原風景I〜東急砧線跡を行く〜」よりどうぞ。全く音楽的要素はゼロです(笑)ので、ご興味ない方には拷問にしかなりません。ご注意の程お願いいたしますm(_ _)m
追伸:「ブレイク3周年記念おめでとうございます」メールをくださった方々、本当にありがとうございました。そういうメールは元気付けられます。もうファンの方は泡沫に消えていったかと思っておりましたので(笑)。また、頑張ろうとという気持ちにされました。本当にありがとうございます!またオモロイ作品を作りたいと思います。
始発駅の二子玉川は割愛します。連休で人がゴミのようだったので。
休みの日に不特定の人間に殺意が沸いてもつまらないので、いきなり次駅にいきました(笑)
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旧中耕地駅跡
場所はこの辺り
街の全景写真を取り忘れるという、僕が不動産屋の営業なら即刻資料室送りになっているようなオソマツぶり(^^;
この石碑の直下にこんなものが
随分ラフだなオイ(笑)
途中こんなんも。この辺に
周辺は伝統ある校舎を構えた小学校の近所にアップトゥーデイトな(何時代の言い回しだよ)パン屋さんなどがあり、世田谷区のもつ独特のアンチ・プロレタリアートな雰囲気がありながらも、どこかノスタルジックな風合いが極めて自然に統合されている、そんな雰囲気でした。デジカメを胸元にぶらさげ、カブに乗ってメット被ったまま写真を撮っていたので行過ぎる学生(特に女の子)に痛快なほどに怪訝な顔でガンくれられました。怪しいもんではありません。いかがわしいもんです(笑)。ごめんなさい。
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旧吉沢駅跡(?)
場所はこちら
写真左は愛車コシンスキー号
旧砧本村駅方面から二子玉川駅方面を臨む。
1枚目の写真にあるお店、小料理と定食屋さんっぽかったのだが屋号が「よしざわ」という名前だったので、てっきり駅かと思い撮影してきました。
が、色々帰宅して調べていくうちに吉沢駅はもう少し中耕地駅よりだった可能性が出て来て、この二枚目に僕が撮影したところはもしかしたら単線線路用の待避設備(すれ違い用に車両分のみ複線化してある線路)だったのかもしれない。こういうところでも、己の生兵法が出てしまう切なさよ(苦笑)
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旧浄水場付近(=旧大蔵駅跡付近?)
場所はここ
バス停
住所です。
ここが旧大蔵駅跡なのかどうか、ネットを見ても調べ方が悪いのかしっかりとした場所が確定出来ないまま撮影してしまいましたm(_ _)mただ、ここから引込み線があり、その引込み線の先に土砂を運搬する採砂場があったようです。1934年にそこから土砂を採掘するのが禁止されるまで、渋谷村(現渋谷)まで土砂が運搬されていたようです。たった70年そこいら前の話ですよ。
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終点砧本村駅跡
場所はここ
バス停留場(終点)です。「砧本村」という停留所名です。
奥に見える自転車置き場付近の拡大写真。コンクリートの柵が、かつてここに駅があったことを彷彿させますね。
ここからの写真。砧本村駅跡から二子方面を臨む。ここもまた待避設備だったんでしょうか。道幅が狭く、両路とも一通です。元に線路が敷設してあったと思うと、萌えますねこういうの(笑)
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今回ここまで自分の小旅行をまとめて一つ感じたのだが、僕はもはや「鉄道ファン」というカテゴリでなく「東京郷土ファン」なのかもしれないですね。
まぁそういう風に自分の趣味が変態していくのは、ある意味自然でありますしね。
というのも、未だに暗渠化した都市中小河川(蛇崩川・渋谷川・神田川(しかも支流の方)・烏山川(目黒川の支流)・谷端川・藍染川etc)を散策するのが好きだったり、工業地帯(特に川崎市浮島・夜光近辺)のあのケミカル臭と、夜間に点灯する分留塔の妖光を見るのが好きだったり。
今まで付き合ってきた友達やガールフレンド、誰にカミングアウトしても引かれてましたよ(爆笑)。
引かなかったのはニバリキ津田氏くらいか(さらに爆笑)。
しかし今回の小旅行は有意義なものでした。
実際ネット巡回していてスゴイ写真が目白押しでしたよ(なかでも「む〜さんの鉄道写真」とかスゴイです。個展があったら絶対見に行きたい写真ばかりです。直リンは許可を頂いていないので避けますね)。
それらの写真を拝見して、ちょっと驚いたのは、今現在僕は電車の車両には全く興味がわかず、寧ろ昔の電柱・看板・広告・人の服装とかこういう方に目が行ってしまう。今回掲載した写真の横に「旧来の風景」と、対比して掲載したかったのですがこれは無許可でやるわけに行かないので泣く泣く止めました。
もう僕も来年36。
きっと両親が出会ったころの、つまりは自分の原風景=ルーツを確認したくなる年齢なのかもしれませんね。
また好評でしたらこのシリーズはやりたいと思います。
投書・コメントなどがあれば(笑)
次回はぜひ消えた新宿都電探索やってください!
砧線中耕地駅の看板はなんだかマジックの手書きみたいで、ナイス。
「wikiって」とありますが、これがwikipediaを使用したということなら「ウィキペディアでやってはいけないこと」に書いてある通りなので(以下略
もし違うのならすみません。名のあるお方なのでもしも知らずにそう書かれていたのなら少しマズイのではと思ってコメントさせていただきました。